安土の例文や意味・使い方に関するQ&A

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Q: 安土桃山時代(戦国時代後期)に生きていたポルトガル人にとっては、当時の日本の最も偉大な君主は織田信長じゃなくて、大友宗麟だった。
勿論、そう言ったのは、大友宗麟は他の大名とは違って、ポルトガル人のキリスト宣教師が領内で宣教することを許したところが大きいなのだ。大友宗麟から恩恵を貰って、大友宗麟を賛美するのも当然のことだ。
しかし、ポルトガル人がそういった原因はそれだけじゃない、大友宗麟には格別なところがあったのだ。

戦国時代の重税を課させられていた民間人は大変だった。
重税って、どれぐらいかといえば、一例をあげて説明する。
関東の北条氏は「四公六民」という政策を施しただけで、北条領の民間人に奉戴されていた。
「四公六民」というのは、農民が耕作して収穫した農産物の出来の六十パーセントは農民のもの、四十パーセントは税金として納めるということだ。
北条氏が奉戴された原因は当時の民間人にとって、そんな税率でも既に軽税だった。
ほかの地区の税率はもっと高かったのに想像に難くない。ということで、少なくとも五十パーセントはあったのだろう。
統治者は五十パーセント以上の税率を民間人に課させていたことに当時の世相が反映している。
それは、当時の統治者にとっては、民間人がただいつでも踏み潰せるくらいの虫螻のような存在だけだった。

本題に戻り、大友宗麟の格別は、そんな時代で、分け隔てなく困惑している人に救いの手を差し伸べたところにあった。
大友家は室町幕府の「九州探題」という官職についていた。
「九州探題」というのは、天皇と幕府を除いて、九州地方の最高のリーダーのことだ。
全域まで及んでいないが、九州の大半を大友家は支配していた。
しかし、九州南部の島津家の台頭により、大友家は島津家と相容れない関係にあっていた(なっていた?)。
大友家は屡々に敗戦してついに島津家に窮地に追い込まれた。
大友家の重要な拠点である臼杵城の戦いで、大友宗麟は付近の領民を救うため、臼杵城への避難を呼びかけて、自分の残り少ない食べ物を難民に分け合った。領民の命が助かるのにベストを尽くした。これは民間人にとってとても残酷な戦国時代で珍しいことだった。

また、戦国時代は下剋上と裏切りが普通である時代だった。
少し例を見てみよう。
「小早川秀秋は西軍を裏切って西軍が敗北した。」
「武田信玄は父を追放した」
「長尾为景は主家の上杉家の領内を占拠した」
「陶晴賢はクーデターをして主家の大内家の兵権を奪った」
「松平信康は武田家と結託の疑いで父の徳川家康に切腹と命じられた」
「伊達晴宗は兵を率いて父と戦って隠居させた」
「小山田信茂は織田家に内通し、主君の武田勝頼が逃げるときに退路を断って武田家が滅亡した」
「三好三人衆は武家棟梁の征夷大将軍を謀殺した」
「長宗我部元親は恩を忘れ一条家を滅ぼした」
「明智光秀は織田信長を焼き殺した」

そんな時代において、大友家は島津家に滅ぼされる危機に臨んでいても、上記のような致命的な裏
切りは受けていなかった。
却って、「大友双璧」だと呼ばれている大友家の家臣「立花道雪」と「高橋绍運」は全身全霊をもって大友家をとことんまで守り抜いていた。
これは、大友宗麟の人間的な魅力があっての彼らの忠誠だといえるのだろう。

島津家により、途方にくれていた大友宗麟は豊臣秀吉に臣従し援軍を求めた。
豊臣秀吉は「四国を平定してから、助けてやる」と約束したが、島津家の軍隊は既に大友の根拠地に押し迫てきた。
そこで、大友宗麟は打ち沈んでいてやけ酒を飲んでばかりになっていた。
大友宗麟がスランプでいる間に筆頭家老の「立花道雪」は何度も何度も大友宗麟に励ました。
「立花道雪」は裏切らなかっただけじゃなく、他の家臣に「大友家を裏切ってはならない、援軍は来ているところだぞ」と安心させ、「弱音を言わないで、大友の繁栄に役に立てることを言おう」と呼びかけ大友家内部の結束を強めた。

一方、「高橋绍運」は要地である岩屋城の戦いで三十倍以上の島津軍を面して、危惧していなかった。
冷静に番手の指揮を執っていて粘り強く13日も島津軍を拒んで、貴重な13日の時間を大友家に稼いでやった。「高橋绍運」の結局は763人の番手と共に戦死だった。
それから30日後、豊臣軍の先鋒はやっと九州に上陸した。
島津家はそれを知って軍を引き上げ守備側に転じた。これで、大友家は危機を乗り切られた。
「难仪を共にしたこそ、真情が见えてくる」という言葉は「高橋绍運」と「立花道雪」のような人をいうのだろう。
この表現は自然ですか?
A: × 安土桃山時代(戦国時代後期)に生きていたポルトガル人にとっては、当時の日本の最も偉大な君主は織田信長じゃなくて、大友宗麟だった。
安土桃山時代(戦国時代後期)に生きていたポルトガル人にとっては、当時の日本で最も偉大な君主は織田信長ではなく大友宗麟だった。

× 勿論、そう言ったのは、大友宗麟は他の大名とは違って、ポルトガル人のキリスト宣教師が領内で宣教することを許したところが大きいなのだ。
✓ そう言われるのは、大友宗麟が他の大名とは違い、ポルトガル人のキリスト教宣教師が領内で布教するのを許したところが大きい。

× 大友宗麟から恩恵を貰って、大友宗麟を賛美するのも当然のことだ。
✓ 大友宗麟から恩恵を貰っているのだから、大友宗麟を賞賛するのも当然のことだ。

× しかし、ポルトガル人がそういった原因はそれだけじゃない、大友宗麟には格別なところがあったのだ。
✓ しかし、ポルトガル人が賞賛した原因はそれだけではない。大友宗麟には格別なところがあったのだ。

× 戦国時代の重税を課させられていた民間人は大変だった。
✓ 戦国時代の重税を課せられていた民間人は大変だった。

× 重税って、どれぐらいかといえば、一例をあげて説明する。
✓ 重税とはどれぐらいのものか、一例をあげて説明しよう。

× 北条氏が奉戴された原因は当時の民間人にとって、そんな税率でも既に軽税だった。
✓ 北条氏が奉戴されたのは、当時の民間人にとってはそんな税率でも既に軽税だったからだ。

× ほかの地区の税率はもっと高かったのに想像に難くない。
✓ ほかの地区の税率がもっと高かったのは想像に難くない。

× 統治者は五十パーセント以上の税率を民間人に課させていたことに当時の世相が反映している。
✓ 統治者が五十パーセント以上の税率を民間人に課していたことを当時の世相が反映している。

× それは、当時の統治者にとっては、民間人がただいつでも踏み潰せるくらいの虫螻のような存在だけだった。
✓ それは、当時の統治者にとっては、民間人がただいつでも踏み潰せるくらいの虫螻のような存在なだけだった。

× 本題に戻り、大友宗麟の格別は、そんな時代で、分け隔てなく困惑している人に救いの手を差し伸べたところにあった。
✓ 本題に戻り、大友宗麟の格別さというのは、そんな時代でも分け隔てなく困窮している人に救いの手を差し伸べたところにあった。

× 全域まで及んでいないが、九州の大半を大友家は支配していた。
✓ 全域までは及んでいないが、九州の大半を大友家は支配していた。

× しかし、九州南部の島津家の台頭により、大友家は島津家と相容れない関係にあっていた(なっていた?
✓ しかし、九州南部の島津家の台頭により、大友家は島津家と相容れない関係となっていた

× )。
✓ 。

× 大友家は屡々に敗戦してついに島津家に窮地に追い込まれた。
✓ 大友家はしばしば戦に敗れ、ついに島津家に窮地に追い込まれた。

× 大友家の重要な拠点である臼杵城の戦いで、大友宗麟は付近の領民を救うため、臼杵城への避難を呼びかけて、自分の残り少ない食べ物を難民に分け合った。
✓ 大友家の重要な拠点である臼杵城での戦いで、大友宗麟は付近の領民を救うため臼杵城への避難を呼びかけると、自分たちの残り少ない食料を難民に分け与えた。

× 領民の命が助かるのにベストを尽くした。
✓ 領民の命を助けるのにベストを尽くしたのだ。

× これは民間人にとってとても残酷な戦国時代で珍しいことだった。
✓ これは民間人にとってとても残酷な戦国時代では珍しいことだった。

× 「小早川秀秋は西軍を裏切って西軍が敗北した。
✓ 「小早川秀秋は西軍を裏切って西軍が敗北した」

× 「長尾为景は主家の上杉家の領内を占拠した」
✓ 「長尾為景は主家の上杉家の領内を占拠した」

× 「松平信康は武田家と結託の疑いで父の徳川家康に切腹と命じられた」
✓ 「松平信康は武田家と結託した疑いで父の徳川家康に切腹を命じられた」

× 「伊達晴宗は兵を率いて父と戦って隠居させた」
✓ 「伊達晴宗は兵を率いて父と戦い隠居させた」

× 「小山田信茂は織田家に内通し、主君の武田勝頼が逃げるときに退路を断って武田家が滅亡した」
✓ 「小山田信茂は織田家に内通し、主君の武田勝頼が逃げるときに退路を断ったため武田家は滅亡した」

× 却って、「大友双璧」だと呼ばれている大友家の家臣「立花道雪」と「高橋绍運」は全身全霊をもって大友家をとことんまで守り抜いていた。
✓ 却って、「大友双璧」だと呼ばれている大友家の家臣「立花道雪」と「高橋紹運」は、全身全霊をもって大友家をとことん守り抜いていた。

× これは、大友宗麟の人間的な魅力があっての彼らの忠誠だといえるのだろう。
✓ これは、大友宗麟の人間的な魅力があるからこその彼らの忠誠だといえるだろう。

× 島津家により、途方にくれていた大友宗麟は豊臣秀吉に臣従し援軍を求めた。
✓ 島津家により途方にくれていた大友宗麟は、豊臣秀吉に臣従し援軍を求めた。

× 豊臣秀吉は「四国を平定してから、助けてやる」と約束したが、島津家の軍隊は既に大友の根拠地に押し迫てきた。
✓ 豊臣秀吉は「四国を平定してから、助けてやる」と約束したが、島津家の軍隊は既に大友の根拠地に押し迫っていた。

× そこで、大友宗麟は打ち沈んでいてやけ酒を飲んでばかりになっていた。
✓ 大友宗麟はうち沈み、やけ酒を飲んでばかりになっていた。

× 大友宗麟がスランプでいる間に筆頭家老の「立花道雪」は何度も何度も大友宗麟に励ました。
✓ 大友宗麟がスランプの中にいる間に、筆頭家老の「立花道雪」は何度も何度も大友宗麟を励ました。

× 「立花道雪」は裏切らなかっただけじゃなく、他の家臣に「大友家を裏切ってはならない、援軍は来ているところだぞ」と安心させ、「弱音を言わないで、大友の繁栄に役に立てることを言おう」と呼びかけ大友家内部の結束を強めた。
✓ 「立花道雪」は裏切らなかっただけでなく、他の家臣に「大友家を裏切ってはならない、援軍は来ているところだぞ」と安心させ、「弱音を言わないで、大友の繁栄に役に立てることを言おう」と呼びかけ大友家内部の結束を強めた。

× 一方、「高橋绍運」は要地である岩屋城の戦いで三十倍以上の島津軍を面して、危惧していなかった。
✓ 一方、「高橋紹運」は、要地である岩屋城の戦いで三十倍以上の島津軍と対峙しても、危惧していなかった。

× 冷静に番手の指揮を執っていて粘り強く13日も島津軍を拒んで、貴重な13日の時間を大友家に稼いでやった。
✓ 冷静に番手の指揮を執っていて粘り強く13日も島津軍を拒み、13日という貴重な時間を大友家に稼いでやった。

× 「高橋绍運」の結局は763人の番手と共に戦死だった。
✓ 「高橋紹運」は結局763人の番手と共に散った。

× それから30日後、豊臣軍の先鋒はやっと九州に上陸した。
✓ それから30日後、豊臣軍の先鋒はようやく九州に上陸した。

× 島津家はそれを知って軍を引き上げ守備側に転じた。
✓ 島津家はそれを知ると軍を引き上げ守備側に転じた。

× これで、大友家は危機を乗り切られた。
✓ これで、大友家は危機を乗り切ることができた。

× 「难仪を共にしたこそ、真情が见えてくる」という言葉は「高橋绍運」と「立花道雪」のような人をいうのだろう。
✓ 「難儀を共にしたからこそ、真情が見えてくる」という言葉は「高橋紹運」や「立花道雪」のような人をいうのだろう。

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